② 川崎臨海部 の歴史
▶ 「京浜工業地帯 の生みの親 」浅野総一郎
横浜市神奈川区子安台 に浅野学園 という中学校・高等学校があります。この学校には「京浜工業地帯 の生みの親」と言われる浅野総一郎 の銅像 があります。その銅像 は、自分が埋 め立てた京浜工業地帯 を見下ろすようにして立っています。
浅野総一郎 は、嘉永 元(1848)年に今の富山県氷見 市で医者の長男として生まれました。23歳で上京し、実業家 である渋沢栄一 の支援 により、セメント、炭鉱 、ガス、造船 などのたくさんの事業を手がけました。
若いころ、多くの事業に失敗しましたが、失敗しても、くよくよせず、何回もチャレンジしたことで知られています。
ヨーロッパやアメリカで見た大きな船が接岸
できる港や、運河に面した工業用地が必要だと感じます。
そして、大正 2(1913)年から、川崎と横浜の臨海部 で埋め立て工事を始めました。広い埋立地 には、多くの企業 が進出しました。
浅野総一郎 の埋立地の事業に続いて、神奈川県や川崎市なども埋 め立て事業に取り組み、ここに京浜工業地帯 が出現 するのです。
出町譲著(2013年)「九転十起 事業の鬼・浅野総一郎 」 幻冬舎
▶ 日本の高度成長 をけん引
戦後、製鉄所 や発電所、石油化学工場などの重工業が盛んとなり、川崎臨海部 は京浜工業地帯 の中心として発展し、日本の高度成長 をけん引する重要な役割 を果たしました。
▶ 公害問題と克服 に向けた取組
川崎臨海部 は、1960年代から1970年代にかけて、京浜工業地帯 の中心として日本の高度経済成長 をけん引してきましたが、一方では、工場からのけむりなどによる空気のよごれがひどくなり、ぜん息になる人が増 えたり、光化学スモッグの被害 が出たりしました。
こうした被害
を「公害」といい、川崎市だけでなく、日本各地で多くの被害
が発生しました。
このような公害問題に対し、市民、事業者、行政
はさまざまな取組を行い、現在
は、市民が安心して暮
らせる生活環境
を取りもどしてきました。
公害問題の克服 に努めてきた川崎臨海部 に立地している多くの企業 は、公害を防止 するための技術 や環境技術を有 しています。