川崎臨海部とは
東京から神奈川にまたがる日本有数の工業地帯「京浜工業地帯」の、その中央に位置するのが「川崎臨海部」です。
「川崎臨海部」はどんなところ
川崎臨海部には、鉄鋼・石油化学等の工場やエネルギー・物流施設等2,700もの事業所が集まり、私たちの生活を支える産業活動が盛んに行われているエリアです。
例えば、衣類や洗剤、タイヤなどのゴム製品、アスファルトなどのもとになる石油、
自動車や船、橋などを作るための鉄、
電気や熱などのエネルギー、
海外との玄関口となり多くのモノが行き交うための物流など、
さまざまな産業が集まり、日本経済をけん引しながら私たちの生活を豊かにしてきました。
また近年では、健康・医療・福祉などの研究機関が集まる国際戦略拠点「キングスカイフロント」が作られました。今まで治療が難しいとされている“ガン”や“アルツハイマー病”などを治す治療法や、新しい薬を作る研究など、様々な健康・医療・福祉に関する世界最高水準の研究開発が行われています。
さらに、川崎臨海部では、低炭素社会をめざし「水素エネルギー」の活用や、新たな拠点の形成など、私たちの暮らしをより便利で快適にするため、社会に、世界に貢献するための取組を行っています。
川崎臨海部の現状
位置
基礎データ
面積: 約2,800ha
事業所数: 約2,700
従業者数: 約71,000人
エリア紹介
航空写真で見た臨海部
川崎臨海部地区カルテ・アクションマップ
https://www.city.kawasaki.jp/590/page/0000055844.html
川崎臨海部のあゆみ
今からおよそ100年前、「京浜工業地帯の生みの親」と呼ばれた浅野総一郎は実業家・渋沢栄一らの支援を受け、川崎の地で日本初となる港湾工場一体型の臨海工場地帯の建設に乗り出しました。
川崎・横浜にまたがる臨海部は埋め立てられ、大規模な土地を求めて企業が次々と立地していきました。
その後、製鉄所や発電所、石油化学など重工業の集積が進み、日本の高度経済成長をけん引する重要な役割を担う地域として発展してきました。
一方で、1 9 6 0 年代には深刻な環境問題が発生しましたが、市民・企業・行政が一体となって課題解決に取り組んだ結果きれいな空気や川などを取り戻し、その取組の過程で培われた高度な環境技術が集積する、産業と環境が調和したエリアとして成長を遂げました。
浮島町や千鳥町には石油産業、南渡田や扇島を中心に鉄鋼業、千鳥町や水江町、扇町、東扇島にはエネルギー施設を中心として企業が集積しています。また、東扇島には物流施設が集積し、国内随一の冷凍冷蔵倉庫群が立地しています。
このように川崎臨海部にはさまざまな産業分野の企業が集積し、相互に連携しながら操業を続けています。
浅野 総一郎(1848年- 1930年)
日本におけるセメント産業を軌道に乗せ、経営する浅野セメントを当時の最大手企業に育成した手腕から「セメント王」と呼ばれるとともに、1914年には鶴見埋築株式會社(現・東亜建設工業株式会社)を創立して鶴見で東京湾の埋め立て(浅野埋立)をはじめるなど、京浜工業地帯の形成に寄与した「京浜工業地帯の父」「日本の臨海工業地帯開発の父」でもある。
渋沢 栄一(1840年- 1931年)
江戸時代末期に農民から武士に取り立てられ、のちに主君・徳川慶喜の将軍就任にともない幕臣となり、明治政府では官僚も務めた。民部省を経て造幣、戸籍、出納など様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。1883年、工部省深川工作分局の浅野総一郎への払下げによる浅野セメント工場(現:太平洋セメント)創業を支援。
1900年代~1950年代
川崎臨海部の形成
〇首都圏の中で大規模で安価な土地を求めて、川崎に企業が次々と立地
〇実業家の浅野総一郎が、大型船が泊まれる港の整備及び川崎・横浜にまたがる臨海部の埋立に着手
〇関東大震災を契機として、工場が東京から川崎・横浜地区に次々に移転
〇太平洋戦争により壊滅的な打撃を受けるが、朝鮮戦争を機に経済活動が発展
〇機械工業、鉄鋼、非鉄、非金属、エネルギー(石油、石油化学、電力)等の各分野での集中的な設備拡充が行われ、日本の高度成長を担う中心的な工業地帯が形成
1950年代~1970年代
高度経済成長を牽引
〇埋立事業及び企業誘致が進展し、戦後、鉄鋼・非鉄金属を中心とした企業の立地、発電所建設、石油パイプラインとシーバースの整備によりコンビナートが形成
〇国内最大級のコンビナートとして日本の高度経済成長を牽引
〇扇島、東扇島の造成を終え、現在の臨海部コンビナートの形となる
1960年代~1990年代
環境問題と解決に向けた取組
〇工場からの排水・排煙により環境問題が深刻化するも、市民・企業・行政の努力により環境問題は徐々に改善
1990年代
産業の空洞化と臨海部の再生
〇企業のグローバル化と国際的な分業化の進展を受け、工場が海外や地方へ移転し、遊休地が顕在化(ピーク時:1999年度 220ha)
〇1997年、エコタウンプランを策定。川崎臨海部全体(約2,800ヘクタール)を対象エリアとして、政府が国内第1号のエコタウン地域に認定。
2000年代~現在
臨海部の新たなる飛躍
〇1997 年度に「エコタウンプラン」を策定。政府から、川崎臨海部全体を対象エリアとして、国内第 1 号のエコタウン地域の認定を受ける。
〇「キングスカイフロント」の拠点形成を開始。2011年7月、第1号機関が進出。
〇2018年3月、「臨海部ビジョン*2」を策定、川崎臨海部が目指す30年後の将来像の実現に向け取組を推進中。
〇2015年の「水素社会の実現に向けた川崎水素戦略」を経て2022年に「川崎カーボンニュートラルコンビナート構想」を策定。
〇カーボンニュートラル社会の実現を目指し具体的なプロジェクトを推進中